東京高等裁判所 昭和37年(ネ)99号 判決
以上認定事実を総合して考察するに、被控訴人は七三才の老令で、本件家屋とその敷地以外にはこれといつて資産もなく、僅かばかりの恩給(原審における被控訴本人の供述によれば年額一四万円)と娘二人の勤めによつて得る収入に親類の援助を受けて一家の生活を維持している状態であり、本来ならば最も頼りになるはずの長男は精神病院入院中、次男も原判決認定のような病気で通院中で、同人らの入院費治療費等に毎月相当の出費を余儀なくされ、現住居の家賃金月額二万円は被控訴人の一家にとつては非常な重荷となつており、さりとて経済上の苦境を打開するため本件家屋およびその敷地を処分するとすれば、唯一の資産を失うこととなるわけであり、したがつて本件家屋の明渡を受け、これを被控訴人一家の住居とすることによつて出費を減らし、物質的および精神的な苦痛を幾分でも和らげたいと念願するのは十分首肯し得るところである。一方控訴人の方も相当多数の家族や住込みの使用人を擁しており、事業の方も現在のところ必ずしも順調に行つているとはいえないのであるが、控訴人由井が、これもかなり高齢ながら、それでも一級建築士としての収入があり、その妻富じは控訴会社の代表取締役をしており、次男、三男はいずれも一人前となつて収入を得ているのであつて、被控訴人に比すればかなり余裕のある生活をしているものと認められる。もとより、本件家屋の現居住者が全員そのまま居住できるような家屋を物色することは相当困難なことと考えられるけれども、控訴人由井の次男、三男において、それぞれ自己の妻子を引きとるとか、その他その生活力に応じて協力すれば、住宅事情もかなり好転している現在、同控訴人の方で他に住居を求めて移転することも、控訴人らのいうほど困難なこととは考えられない。また、本件家屋の存する場所が純然たる住宅地域であることは控訴人らにおいて明らかに争つていないところであり、控訴人由井の営業の性質からみて、他に移転することが右営業にそれほど重大な影響を及ぼすものとも考えられない。そして、被控訴人の申立に係る本件家屋明渡の調停手続において控訴人由井の示した誠意を欠く態度や、右調停が不成立に帰し、被控訴人において住居を転々するに至つた経緯その他先に認定した被控訴人側に存する事情に、被控訴人が原審において昭和二九年一二月一日から昭和三二年一二月末日までの賃料ないしは損害金を立退料として提供することを申し出でいること(この主張は、本明渡判決確定と同時に右の債務を免除する趣旨と解される。そして、同主張のなされたのは昭和三六年二月二三日の口頭弁論期日であることは記録上明らかである。控訴人由井は右期間の賃料として合計金九万二、五〇〇円を弁済のため供託していることは、成立に争いのない乙第二、三、四号証によつて明らかであるが、右弁済供託があつてもこれにより右賃料債務が絶対的に消滅に帰したわけではないから、本判決が確定すれば、控訴人由井において供託原因の消滅に基き供託金の取戻をなし得るわけであり、同控訴人は、これを移転による出費の補填に充てることができる。)を総合すれば、先に認定した事実中控訴人側に存する諸般の事情を考慮しても、少なくとも前記昭和三六年二月二三日以降においては、被控訴人において本件家屋の賃貸借契約を解約するにつき正当の事由を具備するに至つたものというべきであり、したがつて、爾後六箇月を経過した同年八月二三日かぎり右賃貸借契約は終了したものといわねばならない。(なお、被控訴人は、当審昭和三八年一月二二日の口頭弁論期日においてさらに昭和三三年一月一日から昭和三四年一二月末日までの賃料ないしは損害金をも提供する旨申し出ており右は既に本件賃貸借が終了したと認められる時期以後のことに属するけれども、右期間内の賃料として控訴人由井において供託していることが成立に争いのない乙第五、第六号証第七号証の一によつて認められる合計金六万円は、前同様控訴人由井においてその取戻をなし、移転費等に充用することができるわけである。)
(山下 多田 吉井)